マーティンギターの歴史について

マーティンギターの歴史について

◆160年以上の歴史を誇るマーティン社の源流はドイツにあった...

1969 D-45 Headstock(丸ヘッド)

世界で最も有名なアコースティック・ギター・メーカー、マーティン社創立に至るストーリーは1796年1月31日、クリスチャン・フレデリック・マーティンの誕生と共に始まった。C.F.マーティンの父はヨハン・ゲオルグ・マーティンといい、ドレスデン市を流れるエルベ川に近いマルク・ノイキルヘンの小さな村に住み、ヴァイオリンのケースや出荷箱などを製作する仕事に携わっていた。ヨハンは楽器製作にも興味を持つようになるが、ヴァイオリン製作者との間にトラブルを招く結果となった。クリスチャンはそうした環境の中で育ち、幼くして家業を継ぐ。15歳の頃にはウィーンに出向き、当時ヨーロッパで名を馳せていたギター製作家ヨハン・シュタウファーの徒弟となった。シュタウファーはシューベルトのアルペジョーネソナタを語る際にしばしば話題になる。シュタウファーの工房でギター製作の技術を身につけたクリスチャンは結婚してドイツに帰り、故郷マルク・ノイキルヘンで念願の楽器工房を持った。しばらくするとヴァイオリン製作者ギルドの紛争に巻き込まれ、泥沼状態に陥った。苦悩と疲労の果てに、クリスチャンは故郷を捨てて新天地アメリカへ渡る覚悟を決め、1833年9月9日クリスチャン一家はニューヨークへ向かった。

◆ニューヨークに到着したクリスチャン(マーティン I 世)は直ちにハドソン・ストリート196番地に小さな楽器店を開いた...

ニューヨークに到着したマーティン I 世はウエストサイドにあるハドソン・ストリート196番地に小さな店を開いた。マーティン I 世の、この河岸でのささやかなスタートは現在の世界的評価からみれば遥か昔の小さな物語である。店先にはトロンボーン、フルート、クラリネット、ハープ、ヴァイオリンなどが並び、裏部屋にはギター製作の設備が整っていた。移民直後のマーティン I 世には、これが精一杯だった。ウィーン時代に結ばれたハープ演奏家兼歌手のルシアとの間に子供があり、家族そろっての移民であった。余談ではあるがマーティン I 世の生まれ故郷マルク・ノイキルヘンは後にもう一人の高名なギター製作家を生むことになる。リヒャルト・ヤコブ・ワイスガーバーである。彼は生涯に2000本近い作品を残したが一本として同じ物がない異色のギター製作家であった。ドイツのクラシックギタリスト、ジークフリート・ベーレントが長く彼のギターを愛用していた。また1833年にはロマン派の巨匠ヨハネス・ブラームスが生まれ、日本では葛飾北斎が数々の傑作を描きあげていた頃である。

◆未熟な音楽マーケットの中で苦しむマーティン I 世...

狭いながらも様々な楽器や楽譜の販売コーナー、裏部屋のギター工房。これがマーティン I 世のスタートだった。マーティン・ギターのヘッド・ストックにデザインされたC.F.Martin EST.1833 には、創業時の心意気を永遠に引き継いでいこうとするマーティン社の強い意思と願いが込められているのである。創業時代のアメリカは音楽マーケットが未成熟でマーティン・ギターの製作は創業初期の年代では成り行きにまかせる他はなかった。また当時の小売、製作経営で認められていた業務慣行は、現代から見れば考えられない事ばかりで、物々交換は小売り取引きの常識であった。マーティン I 世の私的記録には、音楽商品をワイン1ケースから子供服に至るあらゆる物と交換したことを示す多数の記載がある。製作者が20%以上の現金割引きを約束する慣行もあった。良いクレジット会社がなかったので、製作者は法外な現金割引を実行したが、その正当化の理由は、ある小売り業者が現金割引きを受けないとすれば、その業者は信用価値がないとするものだった。マーティン I 世は売上げを増加させるために、様々な方面の音楽業者や音楽教師達にアプローチし、配給契約を結んでいった。したがって1840年より以前に製作された多数のマーティン・ギターには"Martin&Schatz"や"Martin&Coupa"といった取引先業者と連名のラベルが貼られている。

◆ニューヨーク時代の名作、シュタウファー・モデルはネック調整システムを持った革新的なギターだった...

1994 Limited Edition D-45 Gene Autry

マーティン I 世がニューヨークに着いて間もない頃に製作した有名なシュタウファー・モデルについて触れておきたい。このギターは1834年に完成され現在でもマーティン社が所有している。デザインはイタリアのギタリスト兼作曲家であったルイジ・レニャーニのものとされ、シュタウファーが製作したものをマーティン I 世が忠実に復元したモデルである。チューニング・マシン・ペグをヘッド・ストックの片側に寄せた構造は、ワンサイド・ペグ・ヘッドを持つエレクトリック・ギターのデザインにヒントを与えたのかもしれない。また変則的アジャスタブル・ネック構造によってネックを上下させる(ギター側面から見た場合)革新的内容であった。その操作はネック・ヒールにマウントしたキーによって自在であったが弦の張力が強いギターには適さないため次第にすたれていった。なおシュタウファーその人のギターは、形状こそ1834年モデルと違うが、日本に所有者が存在するはずである。そのギターはジュリオ・レゴンディが秘蔵していた銘器である。シュタウファー・モデルは現代でも再現する製作家がいて、ゲーリー・サウスウェルの作品が知られている。

◆新天地での生活は故郷と、あまりにも違いペンシルバニア州ナザレスへ移住したマーティン・ファミリー。安住の地を得て本格的ギター・メイキングの道を歩み始める・・・

人々が行き交うニューヨークは、マーティン・ファミリーが育った田園的な故郷とは、かけ離れた環境だった。マーティン I 世とは親密な友人であり仕事仲間でもあったヘンリー・シャッツとの間に交わされた書簡によれば、マーティン I 世は心からニューヨークで寛いだことは一度もなく転居を毎日、考えていたことがわかる。この転居には妻ルシアの方が熱心であった。ナザレスで本格的に楽器製作に取り組み始めたマーティン I 世にとって1800年代中期は重要な発展の時代だった。当時はまだ鉄道網が整備されていなかったため、製品の大部分はニューヨークに向けて出荷された。その他は船便に頼り、主要船積港や運河が充実している都市に送られた。今日まで残されているマーティン社の出荷記録にはボストン、アルバニー、フィラデルフィア、リッチモンド、ピータースバーグ、ナッシュビル、ピッツバーグ、セントルイス、ニューオリンズ等が記されている。この時期はマーティン社の経営も安定していて業績も順調であった。当時の広告に、ギター製作者として虚勢のない真摯な姿勢をうかがい知ることができる。「ギター製作者C.F.Martinは、謹んで音楽愛好家の皆様にお知らせ致します。当社に賜った多くのご愛顧により工場を拡張することになりました。これはますます増大するギターの需要にお応えすることを目的とするものです」なんの変哲もないコピーであるが人々に対する感謝の気持ちが込められていた・・・。なお1859年まではギター工場の一部がニューヨークにそのまま残されていた。

◆今日の、マーティン・ギターの基礎となるXブレイシングの開発...

初期のマーティンギターはオール・カスタムメイドで、1本ずつ製作されており標準仕様はまだ設定されていなかった。そうした中でも、マーティン・ギターにはいくつかの共通した特徴があった。1840年代中頃まではシュタウファー・モデルに用いられているワンサイド・ペグ・ヘッド、ネック角度や弦高の微調整が可能な変則アジャスタブル・ネックが採用された。これらの仕様はやがて姿を消してゆき、1850年代、マーティン I 世は革命的ともいえるギター構造の刷新に着手した。今日の、マーティン・ギターの基礎となるXブレイシングの開発である。この頃からモデルの定番化が進められ、[5][0]といったボディ・サイズのスタンダードが登場し始めている。マーティン I 世の考案したXブレイシングは今日まで守り続けられ、音響的にも強度的にも素晴らしいものであることが実証された。

◆受け継がれるマーティン・スピリット。マーティンI世からII世の時代に...

1882年製マーティンチター

ドイツからアメリカへ移住し、数々の苦難を克服してきたマーティン I 世は1873年2月16日に永眠した。 I 世の築いたマーティン社の技術と実績を受け継いだのは、ドイツ時代に生まれた息子クリスチャン・フレデリックJr.であった。彼はすでに48歳という年齢で後継者として充分な経験を積んでいた。十数人のクラフツマンを雇用するほどの活況であった。マーティン I 世の死去が経営を左右することはなくスムーズな継承であった。しかし、南北戦争後の影響で業績はしばらく乱高下したという記録が残っている。マーティン II 世はギター製作のかたわらチターの製作もした。今も残る1882年製のマーティン・チターの美しさと価値は計り知れない。マーティン II 世は公共への貢献も惜しまなかった人で、ナザレス市の市長を務めたり、教会の管財人にも選出された。人々の尊敬をあつめたマーティン II 世の人生は充実したものであったが1888年に突然の死を迎える。マーティン社の経営はマーティン II 世の息子フランク・ヘンリー・マーティンの手に委ねられていく。

◆より近代的なギター・ビジネスの構築をめざしたフランク・ヘンリー・マーティンの偉業...

フランクは1866年生まれで、当時はまだ22歳の若者だったが、それまでマーティン社がクラフツマンシップだけを支えに業績を伸ばしてきたことを省み、伝統的な職人気質を大切にしながらも、確固とした企業経営手腕を発揮し、より近代的なギター・ビジネスの構築をめざした。当時、マーティン社の製作するすべての楽器はニューヨークを本拠地とするゾービッシュ&サンズを通して販売されていた。ゾービッシュ&サンズはマーティン社の総代理店であり大きな発言権を持っていた。販売に関してはマーティン社も彼らの力に依存していた。しかし、ゾービッシュ&サンズはブラスバンドやオーケストラ用楽器の販売を主体としていたためギターを中心とするマーティン製品の販売には熱心でなく、期待するほどの成果が得られないでいた。販売への不信、新製品であるマンドリンに対するギター同様の対応。ついにフランク・ヘンリー・マーティンはゾービッシュ&サンズとの取引きを停止。長く続いた両社の関係を絶つ勇気有る決定であった。 マーティン II 世から受け継いだ経営が10年目を迎えた1898年、フランク・ヘンリー・マーティンはギターやマンドリンの直接販売を開始。利益率は向上し、かつてない好況となった。1898年のフランク・ヘンリー・マーティンのメモによると、マンドリンは116本直接販売されている。その前年はたったの3本であった。ギターも200本以上となり、マーティン社の経営は確実に安定化の道をたどっていく。ゾービッシュ&サンズとの契約解除は大英断だった。ナザレスの工場から直接販売をするようになったマーティン社はギターとマンドリンの販売促進を積極的に展開し、新聞広告をはじめとする一般広告のほか、フランク・ヘンリー・マーティン自身もエネルギッシュに各地の楽器販売店を訪ね歩き、果敢なセールス活動を繰り広げていく。

◆シリアルナンバーの焼印のはじまり...

1898年にはマーティン・ギターの商標も変更されている。それまで付けられていたC.F.Martin Co.,NewYorkからC.F.Martin Co.,Nazareth Pa.になり、一本一本のギターにシリアルナンバーの焼印が押され始めた。1900年代に入ると弦の製造にも着手。ハンドワインディングのマーティン弦はシルクの芯に銀メッキの銅線を巻いたもので、マーティン一家の手によって手作りの封筒に入れられ、販売された。質の良い弦とともに、そのおしゃれな包装も人気となった。

◆ウクレレのトップメーカーとして急成長の時代を迎えるマーティン社...

1920年製スタイルCマンドリン

1910年から1920年代にマーティン社は急成長の時代を迎える。19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ中を席巻したマンドリン・ミュージックが衰退し、かわってウクレレが大衆の心を捕らえるようになっていく。当初、マーティン社はギター製作の手法をウクレレ製作にも用いていたが、ウクレレ本来の音が得られず不評であった。フランク・ヘンリー・マーティンの対応は素早く、製作上の問題点を改善するとマーケット・シェアは急速に伸びていった。ウクレレの人気は工場増築や増員が必要であった。1920年の年間ギター生産数は1149本に達していたがウクレレの生産は何とギターの2倍近い数を記録した。今日、アコースティック・ギターのトップメーカーであるマーティン社が、実はウクレレのトップメーカーでもあることを世界中のアーティストが知っている。

◆ドレッドノートや14フレット・ネック・ジョイントといった現代のマーティン・ギターの基礎となる画期的な設計、技術が生み出された世界大恐慌の時代...

1920年代の10年間、マーティン社の楽器販売は毎年増加し、1928年には年間ギター生産本数が5000を突破。ところが1929年に歴史的な大事件、世界大恐慌が到来し、マーティン社の経営も一変し企業存続に、全力で取り組まざるを得ない状況になる。事実、業績も急降下する。1929年から1931年の間にはギターの生産本数はほぼ半減、アメリカ全土では数百万人が職を失うという未曾有の状況下であった。マーティン社は経営を多角化し、ヴァイオリンの部品から木製の玩具まで製造し、厳しい時代に対応した。同時にギターのラインアップを見直し、新しいデザインのギターや新技術を取り入れたニューモデルを次々に発表。新製品開発キャンペーンを展開した。この期間に発表された多くの製品は人気を得ることができず消えていくのだが、現在のマーティン・ギターの基礎となるドレッドノート・ボディ、14フレット・ネック・ジョイントといった画期的な設計、技術も生みされたのだった。

◆1934年に発表された14フレット・ドレッドノート・モデルがマーティン・ギターの革新を決定づけ、今日に至るまで世界中のアコースティック・ギターの標準規格となっている...

1937年製F9カープドトップギター

マーティン社の資料によれば14フレット・ネック・ジョイント・モデルの開発は1929年の後期に行われている。それ以前のギターはほとんど12フレットでボディとジョイントされていた。現在でもクラシック・ギターは12フレット・ジョイントである。14フレット・ネック・ジョイント・モデル誕生にはエピソードがある。当時、アトランタを中心に活躍していたバンジョー・プレーヤーのペリィ・ベクテルはマーティン社を訪れ「もっと音域の広い、長いネックのギターを作るべきだ。そうすればギターの演奏表現はもっと自由になるに違いない」と提言。このアドヴァイスにヒントを得て、マーティン社は14フレットでボディに接合するロング・ネック・モデルを開発したのだった。この時に製作されたモデルはオーケストラ・モデルと命名され現在の000モデルへと発展していく。14フレット・ロング・ネック・モデルはギタリストの間で大人気となり、確信を得たマーティン社は他のギターも次々と14フレット・ネック・ジョイントへとモデル・チェンジ。なかでも1934年に発表された14フレット・ネック・ジョイント・ドレッドノート・モデルがマーティン・ギターの革新を決定付けた。ロング・ネックの設計コンセプトは、以後今日に至るまで世界中のアコースティック・ギターの標準規格となっている。もうひとつの革新性はドレッドノートのボディ・シェイプにある。アコースティック・ギター・ファンなら誰もが知っているドレッドノート・モデル。これもマーティン社のオリジナル・デザインである。ドレッドノート・モデルの原型はボストンに本社を構えていたアメリカ屈指の楽器販売会社ディットソンの支配人、ハリー・ハント氏の依頼を受けて1916年にフランク・ヘンリー・マーティンが開発したOEM(発注者ブランド製品)のギターにあった。ハリー・ハント氏の意向は低音が豊かに響きボーカルの伴奏に適したギターを販売したいというものであった。彼のアイデアを具体化しようと、フランク・ヘンリー・マーティンはオリジナル・ボディを設計した。ウエスト・シェイプが浅く、厚いボディ、重厚な低音域の響き。こうして完成したギターはディットソン社が廃業する1920年代後半までディットソン社を通じて販売されていた。ブランドの焼印はDitsonであった。1931年、マーティン社はDitsonモデルを自社のギターとしてリファインすることを決定し、正式にドレッドノートと名付けて試作を開始。現在のD-18、D-28にあたるギターを10本前後製作した。これらのギターはすべて12フレット・ネック・ジョイントだった。本来の14フレット・ネック・ジョイント・ドレッドノート・モデルの発表は、1934年である。現在はどちらもアコースティック・ギターのスタンダード・デザインとなっているが、マーティン社が1910年から1930年代にかけて開発したデザインが広く定着したといってよい。今日ほどギター音楽が発展していない時代に生みだされた革新の数々。それらは、やがて幾多のギター・プレーヤーに認められ、今日ではすべてのアコースティック・ギターの規範とまで言われている。

◆1960年代前半にはバックオーダーが3年分以上に達していた...

フランク・ヘンリー・マーティンには2人の息子がいた。C.F.マーティン III 世と弟のハーバート・ケラーである。2人は大学卒業後、マーティン社で働き、マーティン III 世は主に楽器製作を担当、ハーバート・ケラーは営業に従事したが1927年、32歳の若さで亡くなった。フランク・ヘンリー・マーティンは1945年に経営をマーティン III 世に委ね、引退。3年後の1948年4月9日、82歳で亡くなった。マーティン III 世が社長に就任した頃は、すでにマーティン社の評価は世界的なものであり不動の地位を築いていた。第2次世界大戦後のアメリカの繁栄は人々の生活を潤しアメリカン・ミュージックも大きく発展していった。そうした中でフォーク・ムーブメントを先駆けに、アコースティック・ミュージックに対する大衆の関心も次第に高まっていく。この1948年頃から1970年代までの、およそ30年間、マーティン社は、かつてない成長の時代を迎えることになる。マーティン・ギターの需要は製造能力の限界をはるかに上回り、1960年代前半にはバック・オーダーを3年分以上抱えていた。マーティン III 世は好況とは逆に、重い責任を感じていた。製造能力があがらなかった大きな原因は工場設備にあった。何回にもわたって増築された工場は複雑に入り組んでいた上、階段も多く生産効率を著しく阻害していた。「このままではマーティン・ギターに対する需要に応えることはできない」と判断したマーティン III 世は新しいギター工場の建設に着手した。1964年のことである。

◆ギター・メーカーの枠を越えたフィールドへ進出した1970年代...

1970年代初頭、マーティン社に大きな変革のチャンスが訪れる。マーティン III 世の後を継いで社長に就任したフランク・ハーバート・マーティンの指揮のもと、他のアコースティック・インストゥルメントを営業アイテムに加えるべく活動を開始する。1970年代の始めには有名なバンジョー・メーカーであるべガ・バンジョー・ワークス・オブ・ボストンを傘下に加え、その数ヶ月後にはドラム製作で知られるファイブス社もマーティン・オーガニゼーションに加わった。その後、ダルコ・ストリング社を吸収。高品質ギター弦の安定生産、販売体制を確立する。1982年、フランク・ハーバート・マーティンはマーティン社の社長を退き、マーティン III 世は1986年に亡くなるまでマーティン社の取締役会長を務めた。現在はフランク・ハーバート・マーティンの息子であり、マーティン III 世の孫にあたるマーティン IV 世(クリス・マーティン)が積極的な活動を展開している。こうして、大雑把にではあるがマーティン社の歴史を遡ってみると変革の連続であり、困難な時にあっては保守的な考えを捨て、より積極的であったことがわかる。160年を越える歴史を誇り、しかもギターを作り続けてきたメーカーはマーティン社だけである。1996年に至り、クリス・マーティンの指揮のもと、続々とニューモデルが発表されている。保守的なマーティン・ファンには驚くことばかりだが、この中から次世代を代表するモデルが育ってくるに違いない。しかし、いかなる時代が到来しようとも、Xブレイシング構造やドレッドノート・ボディ・シェイプを捨てることはないだろう。マーティン・ギターが160年以上もの間、高い品質を保ち得ているのは、時代の風潮を読み、独自の企業コンセプトのもとに経営を行ってきたからに他ならない。商品の取引き方法やギターのラインアップは長年の間に変わっていくがギター製作に対するマーティン社の姿勢が変わったことは一度もない。1904年版のカタログに掲載されている序文の中でフランク・ヘンリー・マーティンはこのように述べている。「どのような作り方をすると、マーティン独特の音色が生み出されるのか、ということに秘密などまったくありません。私達は、ただ厳しい注意と強靭な忍耐力でギター製作を行っているだけなのです。厳格な目で材料を選び、各部を組み上げ、プロポーションを整え、そして演奏者の弾き心地に関する様々なポイントを入念にチェックします。膨大な時間が高品質達成のために費やされることは確かです。しかし演奏者がマーティン・ギターを弾いてみて、充分な満足を感じた時には、誰もマーティン・ギターが高価であったことを後悔しないでしょう。」

Eric Clapton with Vintage Martin

フランク・ヘンリー・マーティンこそ特筆すべき人物であり、マーティン社の今日の基礎は彼が築いたといっても過言ではない。小さなギター・ショップをひとつの企業にまで発展させた偉業。彼の決断力、企画力、行動力こそ誉めたたえられるべきである。彼のスピリットは、現在マーティン社を率いるクリス・マーティンにも脈々と流れている。そうした目で近年次々と発表されるニューモデルを見ると興味はつきない。D-45CFM、MTV-1、000-28Golden Era、D-40FW、HD-28VR、000-42AJ&SQなど話題のモデルばかりである。またエリック・クラプトンと協力して000-42ECが製作されたことも記憶に新しい。マーティン社の本格的なプレーヤーズ・モデルは長い歴史を遡っても、このクラプトン・モデルが最初である。その売上の一部がエリック・クラプトン・チルドレンズ・トラストへ寄付された。マーティン社よりミルトン・ヘス・ジュニアが来日して日本のリペアマンたちとの交流もあった。ギターの湿度管理に関するマーティン社の指針も発表されている。日本のマーティン・ファンを大切にするマーティン IV 世らしい心遣いである。

Marty Stuart

1997年にはエリック・クラプトンモデルに続くプレイヤーズモデルとしてOM-42PS Paul Simon、OOO-45JB Jimmie Rodgers、キングストントリオセット、マーティンシュタウファーの復活などLimited Editionシリーズの充実は目を見張るばかりである。1984年にスタートしたこのシリーズも益々充実してきた。そして1998年にはハンク・ウイリアムスモデル、ジョーン・バエズモデル、ジミー・バフェットモデルも発売される。同時にスマートウッドプログラムも着実に進展しつつあり、早くもその第一号モデルが完成した。スマートウッドプログラムというのは成育が確保されている、森林から得られる一定の承認を受けた木材を活用するもの。貴重な森林資源を保護しつつ、ギターを製作していこうとするマーティン社の厳格な姿勢はエコロジーの問題をも視野に入れた、メーカーとしての自覚と責任の表れである。